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 口絵塩田城跡(県指定史跡)

塩田平の南端、弘法山(独鈷山の支峰)の山麓に展開するのが塩田城である。
神戸川のつくった扇状地上に、東前山という集落があるが、この集落のほとんど全域が城下町であったことは、入口に「下城戸」という名が残り、それから上の方に立町・本町・横町・上町、など、中央道路をはさんで、整然と区切られていることが、それをよく物語っている。
その中央道路の南方に「桝形」(つき当って直角に道が折れているところ)があり、それから、ほぼ直線に上ること約200mで塩田城濠跡に達する。このあたりを「内堀」といい、それから上の方を「御前」といっている。「御前」というのは、もちろん高貴の人の居所を意味することばであるが、この「御前」地域から弘法山中腹にかけて、広いものは2、000平方mもある平地(段郭)が、二十数カ所、段階状に重なっている。
このあたり一帯が塩田城本城と目されていたところで、この段郭は、さらに東方の神戸川をこえて前山寺の南部におよび、そこに「御所の入」という場所もある。全体として南北700m、東西200mに及ぶ城郭址が歴然と残り、その規模の広大さはおそらく、県下随一といわれている。
いまからおよそ700年前の建治3年(1277)鎌倉幕府の連署(いまでいえば副総理に当る)であった北条義政が、信州塩田の地に入って、塩田北条氏の祖となり、以降約60年間−鎌倉幕府の滅亡まで−この地方で威を張っていたことは、史料で明らかであるが、その居所がこの塩田城跡であろうと推定されていた。(県教委「塩田城跡調査書」)
昭和50年から約3年間にわたって、上田市は、県・国の協力を得て、この城跡の主要部分と目されるところを発掘調査した。その結果、多くの建造物あとや、青磁・白磁・将棋駒・耳盥など、おびただしい遺物を得たが鎌倉期というより室町期の遣構・遣物が大部分をしめていることがわかった。
そこでこの発掘地点は、塩田北条氏のあとをついでこの城に入った福沢氏(当時東信濃雄将村上氏の重臣)の居所と推定する説が有力となってきている。
しかし、北条氏の居所も、この塩田城跡あるいはその周辺にあったことは、まず疑いないところで、何れの日にか、その存在が確かめられることであろう。
塩田平はいま「信州の鎌倉」といわれる。その心臓部として、中心的役割を果したのが、この塩田城であった。
”夏草や、つわもの共が夢のあと”−−塩田平を一望のもとに見下すこの城跡に立つとき、感懐また一しおである。(詳細解説参照)
 
撮影日:
地区/自治会: 15西塩田/
シリーズ: 塩田平の文化と歴史 3口絵
登録されているキーワード: 史跡 観光  
 
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