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 解説戸石城(といしじょう)跡(県指定史跡)

東太郎山の南東側尾根先に築かれた山城。城の北側は神川が流れ、険しい谷となっている。南東側に伊勢山、南西側に金剛寺の集落がある。砥石城とも記される。
城跡は最も広い本城を中心に、北に枡形、南に戸石の要害、西南には米山の要害(米山城)があって堅固に構成され、山城からは上田平及び千曲川を隔てて依田窪・北佐久方面を望見でき、東から北にかけては烏帽子岳西麓の各集落をはじめ、上州沼田道・松代道等が通る真田の渓谷を一望に収める。当地方屈指の山城。
戸石城の築城は、明確な史料はないが、中世から真田氏が上田地方を押えるための外城として重んじたところであったのを、天文10年(1541)以後約10年間、埴科郡坂木を本拠とした村上氏が、小県(ちいさがた)、佐久地方に備えるために奪取再築した山城である。今本城跡の近くに内小屋・小屋ノ入等の地名を残している。
天文19年(1550)9月、武田信玄はこの城に拠る村上方の軍を攻略したが、大激戦の末敗退を余儀なくされた。(「高白斎記」)、この敗戦を戸石崩といい、信玄一代のうち名折れの戦いと伝えられている。しかし翌年5月信玄に属していた真田幸隆の調略によって落城した(「高白斎記」)。その後、天正11年(1583)真田昌幸が上田城を築城したあともその属城として重きをなした。慶長5年(1600)9月、徳川秀忠が関ケ原に赴く途中に上田城を攻めた時、戸石城は秀忠方に属した真田信之に明け渡された。(「徳川秀忠書状」浅野家文書)『長野県の地名』(平凡社)による。
 
撮影日:
地区/自治会: 10神科/伊勢山
シリーズ: 塩田平の文化と歴史 4解説
登録されているキーワード: 史跡 自然 観光 
 
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