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 解説塩田城跡鎌倉街道と″腹切りやぐら″

塩田城の城下町から山裾をぬうようにして東方ヘ向かう一すじの道を”鎌倉街道”とよんでいる。塩田平から砂原峠をこえ、依田窪を横ぎり、佐久高原を東へ進んで、碓氷峠(または内山峠)をこえ、鎌倉へ向かっていた。いまも群馬県や埼玉県に「鎌倉道」とも「信州道」ともいわれている道が残っているのは、この”鎌倉街道”の延長であると想像される。
鎌倉時代、幕府の直轄地的な場所であった塩田平の人人は、”いざ鎌倉”というときは、ただちに馬にのり、刀や槍をもって、鎌倉へかけつけたのであった。
この鎌倉街道が最大限に利用されたのは、やはり鎌倉幕府最後のときであろう。1333年(南朝元弘3年=北朝正慶2年)、上野(群馬県)にあった新田義貞は、大軍を率いて、鎌倉へ進撃を開始した。朝にタに一城一塁を攻め落とし鎌倉に迫ってくるとの急報に接し、塩田北条氏は一族郎党あげて、この鎌倉街道を馳せ上り、幕府の救援に向かった。
鎌倉に到着するや、直ちに決死の勢いで新田軍を迎撃したのであったが、利あらず、遂に敗退を止むなくされた。そして宗家の北条高時をはじめとし、幕府の主力は、ことごとく戦死・自害して、鎌倉幕府は滅亡した。
このとき塩田北条氏は、金沢北条氏・常葉北条氏などとともに、一族あげて主家に殉じた。『太平記』は「一族門葉283人、われ先きにと腹切って失せにけり」と記し、とくに「塩田入道自害のこと」という一項を設けて、国時・俊時の最後の有様を記している。
このとき、塩田北条氏などが最後を遂げた場所が、東勝寺裏の洞窟(鎌倉ではやぐらという)であった。いまこの洞窟は「腹切りやぐら」と呼ばれ、奥には何百の板卒塔婆が並び、香華の絶えるときがない。
 
撮影日:
地区/自治会: 15西塩田/東前山
シリーズ: 塩田平の文化と歴史 4解説
登録されているキーワード: 神社 史跡 観光 道路
 
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