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 解説大法寺大法寺の歴史/鰐口

大法寺は、小県郡青木村当郷にある古刹である。「一乗山大法寺」と号しているが、古くは「大宝寺」と称し、大宝年間(701〜704)藤原鎌足の子定恵によって創立され、大同年間(806〜810)坂上田村麻呂の祈願で、初代天台宗座主義真によって再興されたという。
この寺伝について確認する資料はないが、寺の前には前述の官道東山道が通過していたことは確実で、今も寺の南方に惣門・本宿などという地名が残り、このあたりに浦野駅があったであろうと推定されている。
大法寺が、はじめ大宝寺といっていたことは、先年発見された建立時の墨書銘によって明らかである。また寺の伽藍配置も古式であり、しかも本尊の十一面観音や、別に安置される通称”普賢菩薩”など平安時代の造顕と考えられることから推しても、この寺の”東山道の開通した大宝年間の創立”という寺伝は、真実にちかいものであろう。おそらくは、東山道浦野駅の駅寺として創建されたものとする一志茂樹博士の説は、大いに傾聴されるところである。
東山道は、開通以降長い間、奈良・京都等の中央と、信濃や関東・東北地方を結ぶ政治文化の大動脈としての役割りを果してきたことは前に述べた。
大法寺という一つの寺にいくつもの「国宝」「重文」級の文化財が集まっているということも、とくに、この三重塔が、地方には稀な名建築であり、その造営に当った工匠たちが、中央から直接やってきているという点も、この寺と東山道との関係を無視して考えることはできない。
平安後期に至って、この地には浦野庄という荘園が成立し、日吉神社=山王権現ともいう=(滋賀県大津市の名社)の社領となった。寺に所蔵される康暦2年(1380)の鰐口の銘文に「施入し奉る。山王宮鰐口、願主大工四郎光宗」とあるのは、その関係を物語るものである。
この鰐口の寄進者は四郎光宗と名のっているが、このときから約50年前に、大法寺三重塔を建てた棟梁も「天王寺四郎」を称していたことが塔内墨書銘によってわかっているので、おそらくはこの光宗は同一人物か、同一系統の人と思われ、この地方を鎮護するため、お祀した日吉神社に、とくに鰐口を納入して三重塔の長久を祈ったものであろう。
その祈りのかいがあってか、この塔は、信濃において、最も古く、そして最も秀麗な姿を今に残しているのである。
最後に、これだけの優秀な建築を造立するためには、よほどの勢力者がいて、その全面的な援護がなければならぬ。その勢力者とは誰か。今のところ、それを詳らかにする史料はないけれども、筆者は鎌倉末期、この地方の地頭であった薩摩氏の力によるものではないかと考えている。

大法寺鰐口

大法寺に所蔵される鰐口。「奉施入山王宮鰐口願主大工四郎兵衛尉光宗康暦二年申庚十一月廿一日」の銘がある。上田小県地方に現存する最古の鰐口である。康暦2年(1380)は南北朝時代の終りごろにあたる。
 
撮影日:
地区/自治会: 99上田市外/
シリーズ: 塩田平の文化と歴史 4解説
登録されているキーワード: 神社 その他の文化 観光 
 
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