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 口絵東山道

今から一千数百年の昔、大和(奈良県)に成立した大和政権は、その強大な勢力によって、日本全部を統一することに成功した。
大和政権が、全国を統一するため、まず開いたのが七つの道であった。東海道・東山道・北陸道・山陽道・山陰道・南海道・西海道がそれで、これらの道は、中央から地方ヘ武力や文化が進出するため、非常に大切な役割を果す。大和政権が日本全国を統一することができるようになったのは、これらの道のおかげであるといっても過言ではない。
このうち東山道という道が信濃の国を通過していた。都から美濃国(岐阜県)を通り、神坂峠(今の恵那山トンネルのあるあたり)をこして、伊那へ出る。それから天竜川沿いに北上して筑摩(今の松本付近)に至り、ここで本線は、保福寺峠をこして国府(今の県庁に当る)のあった今の上田市を経由し、碓氷峠をこして関東・奥羽地方へ向う。支線は今の四賀村あたりで分れて麻績・長野(当時は善光寺といっていた)を通り、野尻湖あたりを過ぎて今の越後へ通じていた。(もっとも、もっと古いころの東山道は伊那谷から、直接、諏訪−佐久−碓氷峠のルートを通っていたと推定される。)(付録地図参照)
この道は、政府の力でつくった道であるから、「官道」といって、ところどころに「駅」という場所をつくり、そこに一定数の馬を常備して主として、政府の役人や武人の通行に役立たせた。そしてこの駅が、結局その地方の政治や、経済の中心地となり、また中央の文化など地方に伝える中継点ともなった。
中央の政治や文化は、続続とこの道を通じて地方に及んだ。この山深い信濃に、思いがけない中央の文化のあとが見出されるのも、この東山道という道をぬきにして考えることはできない。
山をこえ、谷をわたりの道であったが、この道こそ、古代信濃の文化を育てた大動脈だったのである。
写真は、小県郡青木村から、保福寺峠を越えて、都に向う東山道が残っているところ(中央やや右よりに見る道がそれである)、またはるか前方、山脈(やまなみ)の中央突起の左側に、保福寺峠の鞍部が見える。
なお今年(昭和58年)保福寺峠頂上に、写真のような壮大な万葉集歌碑が建てられた。
「信濃路は、いまの墾道刈株に、足踏ましむな履はけ吾が夫」(「万葉集」巻14)峠の両麓にある四賀村と青木村の協力によるものである。
 
撮影日:
地区/自治会: 99上田市外/
シリーズ: 塩田平の文化と歴史 3口絵
登録されているキーワード: 史跡 観光  
 
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