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 口絵国分寺三重塔(重要文化財)

奈良時代(約1200年前)に勅願によってできた「信濃国分寺」は、2〜300年もたたないうちに、兵火によって焼失してしまったであろうと想像されている。
その後、もとの国分寺のあったところから約200m北方の、段丘の上に建てられたのが現在の国分寺である。地元の人には「八日堂」とか「お薬師様」とかいわれて、正月八日の縁日(「だるま市」)などで親しまれている。
この再興された国分寺の東南の一角に、美しい姿をみせているのが、この国分寺三重塔だ。大法寺三重塔・安楽寺八角塔・前山寺三重塔などにくらべて、建立時代はやや新しく、室町時代中期のものと推定されているが、さすがに、一国の国分寺を象徴するにふさわしいみごとな建築である。
いくぶん強く反った三層の屋根は、美しい曲線を中空に描き、しかも塔全体がしっとりと落ちついている。「和様」という手法で統一されているため、ととのった感じをもつ塔でもある。
よくみると、柱と窓、勾欄(手すり)、水煙のかたちに至るまで、大法寺三重塔とそっくりにできている。おそらく工匠たちは、同じ東山道筋にそびえる天下の名塔、大法寺三重塔を模範としてこれをつくったものであろう。(そういえば、現在この国分寺は、大法寺と同じく天台宗に属している。)ただし、後述するが「肘木」の曲線だけは、「禅宗様」となっているのは、どういう理由によるものだろうか。
なおこの塔の初重の内部は、四天柱・来迎壁・格天井などそなわり、「如意頭文」という珍らしいかざりがあって、建築当初の豪華さを想像させている。(解説参照)
中世、この地域は、「国衙領」(信濃国府の直接支配する土地)であったと推定され、室町期に入って海野氏(東信濃の雄族)の勢力が及んでいるが、あるいはそうした背後の力によって、この塔の再興も成就したものではなかろうか。
 
撮影日:
地区/自治会: 09神川/国分
シリーズ: 塩田平の文化と歴史 3口絵
登録されているキーワード: 神社 史跡 観光 
 
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