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 大工町の巻

馬場町と鍛冶町との間の南北約二百メートルの通りが大工町です。この町が初めて作られた時期は、隣りの鍛冶町が元和元年(1615)ごろとされていますから、ほぼ同じ時代と考えてよいかもしれません。
町名は大工たちが住んでいたことに由来しますが、大工の住居があったのは仙石氏時代(1622−1706)のころまでで、松平氏の時代になりますと、武士や足軽が住むようになりました。
上田藩お抱えの大工は五石二人扶持ちほどを給され、徒士格より低く、足軽よりは高い身分でした。当時、「大工」は建築技術者のことで、木工労務にたずさわる「番匠」とは区別されていたようです。
安政六年に大工町の足軽長屋より火が出て、十一軒を焼く火事がありました。このとき火元として調べられた二人の足軽が互いに自分の家族の不始末による失火だと譲らず、その結果二人共処罰されました。隣人に迷惑をかけないという生き方が印象的な話です。
蛭沢川のほとりから北へ向かう大工町の通りは、昔の面影をとどめているような雰囲気があります。その道から馬場町へ抜ける静かな路地の奥に、『ささやき』の作者・清水澄子の生家が残っています。大正十一年、澄子は上田高等女学校(現上田染谷高校)に入学、当時、材木町にあった女学校へ三年間通学しましたが、同十四年一月鉄道自殺をしました。
 
撮影日: 平成03年01月
地区/自治会: 04北部/鍛冶町
シリーズ: 上田ところどころ 地域
登録されているキーワード: その他の交通 商業  
 
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