塩田平の文化と歴史

●塩田平の歴史



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 「塩田」という名が、はじめて史料の上に出てくるのは、平安時代の末期、承安4年(1174)だから、今(昭和58年)から、約810年前のこととなる。
 そのころ朝廷の重臣の一人に、藤原経房という人がいた。この人は、おわりには大納言という高い位につくほどの人であったが、生前こまめに日記をつけていた。その日記のうち一部分(約18年分)が残っていて、『吉記』と呼ばれ、日本史研究の上からは、大へん重要な史料となっている。(『吉記』というのは、彼が吉田というところに住んでいたからつけられた名である。)
 その『吉記』の承安四年のところをみると、大略次のような記事が書かれている。
「八月十三日に、後白河院(後白河法皇の御所。当時は院政時代で、後白河法皇が実権を握っていた。)に参り、東寺の最勝光院から依頼されていた信濃の庄園のことについて言上した。そして院の思召しによって十六日にもう一度参上し、『東寺が、信濃国塩田庄の年貢を布で千反進上したい』といっていると申上げたところ、その趣きを実現するように−、というお言葉を載いた。」
 この記録によって、塩田庄は当時最勝光院という院の領地で、東寺(真言宗の総本山)の勢力下にあったことがわかる。
 最勝光院というのは、後白河法皇の后であった建春門院(平清盛の妻の妹)が、承安3年(1173)に創立した寺である。そのとき後白河法皇はじめ多くの貴族が、この寺のため三十数カ所もの荘園を寄進したが、その中に信濃塩田庄があった。そして最勝光院の別当(世話役)は、東寺が当っていたから、塩田庄は実際には東寺の支配下になっていたわけだ。
 最勝光院は、時の最高権力者である後白河法皇や平清盛をバックとして創立されたものだけに、「その結構宏麗をきわめ、落成の慶讃会には、天皇・法皇の行幸啓があった」といわれるくらいの寺であったから、ここに寄進された荘園も全国的にみて、富裕で由緒あるところが多かった。塩田庄は、信濃からえらばれたただ一つの荘園であったことをみても、当時中央にあっては、かなり高く評価される土地柄であったと考えねばならない。(そのためか塩田庄は年貢千段を貢進することとなっていた。かりにこの一段=一反=を、奈良時代にきめられた調布一反とすれば、長さ8.5メートル、巾57センチの麻布を千反という莫大な量に調製して貢納していたわけである)
 塩田庄がなぜこのように高く評価されたかというと、実はこの地域がふるくから信濃にとっては、政治的にも、経済的にもきわめて重要な場所であったからにほかならない。
 塩田庄は、その昔−少なくとも今から一千年前は、安宗(あそ)郷(阿曽郷ともかく)といっていたことが、『和名抄』という朝廷が編さんした書物に載っている。この「安宗」という名は今も、塩田平の南方に聳える安曽岡・安曽岡山(何れも東前山・柳沢両区にまたがっている)に残っているが、実は九州の阿蘇山の「阿蘇」と関係の深い名であることも考証されているのである。
 今から1300〜400年の昔、日本という国の骨組みがやっとでき上りつつあるころ、当時文化の先進地であった九州から、たくさんの氏族が、大和平野に移り住んだ。そして大和朝廷の国造りに参画し功績をあげたが、その中に阿蘇山の麓からやってきた阿蘇氏の一族がある。この氏族は『古事記』によると神八井耳命を始祖とし、意富臣(おふのおみ)・小子部連(ちいさこべのむらじ)・阿蘇君(あそのきみ)などと分れ、科野国(信濃国の古名)の他数カ国の国造(今でいえば県知事に当る職)に任命されたと記されている。
 信濃国造に任命された阿蘇氏の一族は、この塩田平に定着したのだろうというのが、信濃古代史の研究家(とくに栗岩英治氏、一志茂樹氏など)の説で、その根拠は、塩田平に阿曽岡・阿曽岡山などのアソと称する地名が残っていること、生島足島神社という国魂神(国土生成の神)が「延喜式の大社」として現存すること、(国魂神は、国造の治所には祀られるのが通例であった)、一族の小子部氏の名が小県(ちいさがた)(小子部の県の意)として残っていること(これはとくに筆者が詳しく考察している)などによっている。(『上田小県誌』古代中世編)
 大和政権は、日本全土をその支配下に固めて行く時点で、各国に国府(いまの県庁に当る)をおき、そこにいままでの国造にかわって国守(信濃守・越後守など)を任命して中央集権の実をあげた。信濃国の国府は、いまの上田市内におかれたことは、まず疑う余地がない。信濃国分寺が現にここに所在しているからである。国府の所在地を上田市内に定めたことは、その前代の科野(信濃)の国造所在地が、塩田平にあったことと深い関係があると想定される。
 さて、古代のこのような歴史的背景を考えてくれば、平安末期に成立した「塩田庄」という荘園は、政治的にも経済的にも信濃ではきわめて重い意味をもつところに位置していたということになってくる。それが、信濃でただ一カ所最勝光院領として撰ばれた光栄(?)を担うことになった理由の一つであろう。平安終期、中央政権を支えていた平家の勢力を打倒しようとして、まず旗を上げたのが、源頼朝と源義仲の二人であった。従兄弟であるこの二人は、ほとんど同時(治承4年=1180)に挙兵したが、頼朝は流所であった伊豆を根拠としたのに対し、義仲は隠れていた木曽谷を出てきて、はるか東信濃の地を根拠地としている。そしてその地は塩田平の東境に当る依田城であったということも、塩田平に大きな意味を見出してのことと考えられる。義仲は木曽で育っていたため木曽義仲と名のっていたが、彼が集めた兵力は、東信濃と西上州の武士を中心とするものであったことは、多くの史書が立証するところである。彼はこの兵力を精鋭な軍団に組織し、千曲川筋を下り、北陸道を通って京都に向った。途中必死になって阻止しようとする多数の平家軍を幾度かにわたって撃破し、怒濤のように進撃する軍勢をみて、人は「旭将軍」の名を奉って畏敬した。この戦列に塩田平をはじめ、東信濃の多くの地域の武人が加わっていたことを忘れてはならない。
 義仲は、上京して平家撃退の志は達したが、頼朝や後白河法皇に排除されて、形勢日日に非となり、結局栗津ガ原で戦死してしまう。そのあとをうけた頼朝は、弟の義経・範頼とともに平家を滅亡させ、幕府を鎌倉に創めて、武家政治を開始した。これからが所謂「鎌倉時代」である。
 頼朝が第一に着手したのは、全国枢要の地に腹心の地頭をおき、幕府の直接の指揮が及ぶようにすることであった。その枢要の地として信濃で、まず撰ばれた土地の一つが、この塩田平である。文治元年(1185)12月、彼は全国惣地頭に補せられると、直ちに翌文治2年の正月、信濃国小県郡塩田庄に地頭を任命している。任命されたのは、彼の信頼が最もあつかった惟宗忠久(後の島津忠久)であった。このときの地頭補任状(ぶにんじょう)は、信濃における確実な地頭補任状としては、最初のものであり、全国的にみても、最も早いものであることによっても、塩田地方を、いかに頼朝が重視していたか想像することができよう。
 鎌倉幕府における源氏の政権は、三代にして終った。これにとってかわったのが北条氏である。北条氏も頼朝と同じように信濃国をたいへん重要視したことは、信濃国守護(今の県知事に当る)として、北条氏で宗家(本家)につぐくらいの家柄である北条重時およびその家流をもってあてていることによって想察することができる。その北条重時が信濃国の守護に任命されたころから、この塩田平は、「信州の学海」という名によって、信州一円に鳴り渡るようになる。
 信州の生んだ鎌倉時代の名僧(天下第一といわれた京都南禅寺の開山)無関普門という人の行跡の記録をみると、この方が幼時塩田平に学んだことを記して、「塩田は”信州の学海”といわれているところで、勉強に志すものは、みなここにやってきた−−」という意味のことが記されている。(嘉禄元年1225)ごろのことだ。
 また、これから25年くらいたったと推定されるころ、別所に安楽寺(禅宗としての)が創建された。開山は樵谷惟仙という高僧で、鎌倉の建長寺(鎌倉第一の名刹)の開山であった蘭渓道隆という名僧と、中国で一緒に学んだ親友の間柄であった。この高僧が別所安楽寺の開山となったということは、それだけで塩田の存在が高く評価されたということを物語っているが、なおこの安楽寺が、信州では、とびぬけて早くできた禅宗寺院であるという点も、当時塩田平が、文字通り信州教学の殿堂であったことを示唆するものである。
 そして、これから二十年ほどたった建治三年(1277)北条氏の一門で、時の幕府の連署(今でいえば副総理に当る)という重職にあった北条義政が、引退して信州に入り、塩田に館を構えるのである。義政は、当時の信濃守護北条義宗の叔父であり、執権(総理に当る)北条時宗を補佐して、文永11年の蒙古襲来という”国難”をきりぬけた人だ。
 この重臣が何故このとき引退を決意したかについては、諸説があって定かではない。かつては、流謫(島流し)されたといわれていたが、そうではなく進んでこの地に入ったものであることは、最近塩田北条氏についての研究によって明らかにされてきた。(『上田小県誌』中世篇等)
 しかし何故この地を永住の地として撰んだかについては、いまだ明確な答が出ていない。周知のように、北条氏はその一門から名越・赤橋・常葉・塩田・金沢・大仏などいくつかの支族が出て、それぞれ幕府に近い枢要の地を根拠としている。しかるに塩田北条氏のみが、遠く信濃塩田の地に根拠をもとめ、しかもこの地に3代60余年いて、幕府滅亡まで宗家に忠誠を尽しているのは何故か。おそらくそれは塩田の地が幕府にとってきわめて重要な意味をもつところであったこと、そしてそのため、ここが”信州の学海”といわれるように、信濃における政治・文化・宗教の一大中心であったこと−−それらが、義政をしてここに本拠を定めさせた基本的な理由になったと言うことができよう。
 それならば、どうして塩田平がそのような土地になっていたかといえば、おそらく鎌倉時代に入って、信濃の守護がまずこの地に置かれたからではなかったかという推考が生まれる。確実な史料によれば、信濃守護ということばが最初に出てくるのは、嘉禄3年(1227)『明月記』の記事で、その時の守護は北条重時である。しかし重時の父義時が信濃守護となっていたことを証明する史料もあるので、おそらく北条氏は、信濃の重要性にかんがみ、はじめから宗家の義時およびその子孫に、直接守護の役に任せさせていたものであろう。
 重時が信濃守護となったころ、塩田は信濃の政治・文化の一大中心であったことは前に述べたが、それは義時のころからすでに塩田に守護所がおかれていたことによるものと推定したのは一志茂樹博士である。そしてその場所は塩田地方の南に聳える独鈷山の山麓・現在の東前山区にある塩田城あたりと同博士は指摘した。(『塩田城跡調査報告書』(長野県教育委員会))
 この地には東西三ヘクタール、南北二ヘクタールにわたる広大な城館跡があり、信濃最大の城館跡と考えられるところから、「おそらく鎌倉時代における信濃守護所跡で、南北朝以後ひきつづき村上氏の最も有力な前進基地として用いられたもの」と同氏は報告書に記している。
 昭和43年から3年にわたってこの城跡の一部を発掘したが、そこからは主として南北朝以後の遣物が検出された。しかし、この地にはなお広大な地域にわたって中世館跡と覚しき地形、地名等が分布しかつ北条氏の祈願寺という前山寺、同じく北条氏の菩提寺という竜光院なども存在するので、守護所が設置された可能性は、きわめて大きいと考えられている。
 塩田北条氏は、ここを本拠とすること三代57年、元弘3年(1333)鎌倉幕府が滅亡するとき、一族あげて奮戦、宗家のために殉じた。
 その後この塩田地方は、東信の雄族村上氏(本拠地は埴科坂城の葛尾城にあった)の領有するところとなり、塩田城はその前進基地として、村上氏の代官福沢氏が守ったと考えられる。確かな史料としては、室町前期の文安5年(1448)から福沢氏がここに在城したことを示す文書があり、(「諏訪御符礼之古書」)以降天文22年(1553)武田信玄の攻撃をうけて落城するまで村上氏の有力な根拠地であった。信玄は天文10年(1541)小県地方に侵攻をはじめてから12年の歳月をかけて、やっと塩田城を攻略し、はじめて北信濃をのぞく全信州を手中とすることができたのである。塩田城に拠った村上氏の抵抗がいかに大きかったかをよく物語るものであると同時に、塩田平の戦略的な重要性を如実に示すものといわねばならない。
 鎌倉時代、北条氏三代57年にわたる塩田平の歴史も重要だが、南北朝・室町時代に入って少なくも200年に余る村上氏(代官福沢氏)治政時代の塩田平の歴史も、あらためて検討される必要があるであろう。諏訪大社の史料によれば、室町時代の塩田福沢氏は、常に信濃における最大土豪の一として記録されているのである。
 武田信玄はこの土地の重要性をよく認識していたためか、塩田城を落城させると、すぐこの地方の大社生島足島神社(当時は諏訪大明神といっていた)に祈願状や安堵状をささげて民心を安定させるとともに、塩田城に腹心の部下飫富(おぶ)氏を置いて東信濃経営の中心地とし、同時に北信濃へ対する前進基地とした。越後から北信濃へ入って来た上杉謙信と武田信玄が一騎打を演じたという川中島の戦いは、これから9年後の永禄4年(1561)のことで、信玄が塩田城に入ってから8年目に当る。天正10年(1582)武田氏が滅亡して後、小県郡一円は真田氏の領有するところとなった。その翌年−すなわち天正11年、現在の上田城を築いた真田昌幸(幸村の父)は、城を中心として上田城下町をつくり、ここを小県郡の政治・経済の中心とした。このとき、鎌倉時代から、小県地方の政治・文化の中心であった塩田城と塩田城下町ははじめてその機能を失い、一農村地帯と変っていく。しかし上田藩は、塩田平を”塩田三万石”と称し、藩の穀倉地帯としてきわめて重要視し、藩政初期仙石氏時代には、塩田城の城下町であった東前山に大庄屋をおいてこれを統率させている。
 このようにふりかえってみると遠く一千数百年前の古代からはじまり、鎌倉・室町期を通して400年前の上田築城に至るまでの塩田平は、常に信濃の、そして東信濃の政治・文化の一中心であったことがわかる。
 この地域が、地方ではまれにみる”文化財の宝庫”といわれるのも、けだし当然のことというべきであろう。
 しかし、かつて政治文化の中心であったからといって、必ずしも文化遣産が豊かに残るものとはいえない。往古繁栄を誇った土地に、その昔をしのぶ建築や彫刻がほとんど残されていない例が、全国にはいくらもあるのである。ところが、この塩田平とその周辺には、20にあまる国宝・重文・県宝級の文化財が、数百年の風雪に耐えてほぼ完全に保存されている。正に国内まれに見る状況といわねばならぬ。
 この理由は何であったか。天災がなかったわけではない。戦乱も少なからずあったことは明らかだ。しかしこの土地の人人は、この文化財を単なる物件とうけとめてはいなかった。祖先の栄光を伝える貴重な財産として、保護し防衛する精神を忘れなかったところに、その原因を求め得るように思われる。
 それは、民衆が身を以て土地の歴史を知り、その歴史によって、あるべき方向を体していたからにほかならない。
 いま、この土地に住む私たちは、この「文化財の宝庫」に対してなにを学ぶべきか、そして何をなすべきか−−を問われている。それに対する私たちの動きは、そのまま私たちの子孫ヘの、もっとも貴重な贈物となる筈である。
 かけがえのないこのふるさと”塩田とその周辺”それは私たちとその子孫のために、どこまでも愛し、護っていかねばならない”魂”である。