塩田平の文化と歴史

● ″信州の学海″


 源氏にかわって幕府の実権を握ったのは北条氏である。
 北条氏も頼朝と同じように、信濃をとくに重要視したことは、北条氏一族の重要人物である北条重時(三代執権泰時の弟)を、とくに信濃の守護(今でいえば県知事に当たる)に任命したことによっても推察することができる。この重時が、信濃守護に任ぜられたころ、この塩田平は、信濃における学問・宗教の一大中心地となっていた。
 鎌倉時代、信濃の生んだ名僧に無関普門というお坊さんがある。京都随一の名刹といわれた南禅寺の開山となり、いわば日本最高の位置にあった高僧だが、このお坊さんの経歴を書いた「塔銘」というものをみると、このお坊さんは、若いころ塩田で学んで大成したと記してある。そして、そのころ、「塩田は、”信州の学海”といわれ、学問・宗教に志すものは、からかさや本箱を背負って、遠方からたくさんやって来た」とも記されている。
 それでは、具体的にはどこがその勉強の場所になっていたかというと、そのころ塩田平の各地にあった由緒の深い寺院が、学問道場となっていたと推定される。別所の長楽・常楽・安楽(禅宗になる前の)の、いわゆる三楽寺や、中禅寺・前山寺などがその道場になっていたものではなかろうか。
 写真は塩田中学校玄関前にすえられている「塔銘」を刻んだ巨石と、その文章の一部を拡大したもの。ここに文章をそのまま記すと次のようになる。
 「信州に却回して塩田に館す。乃ち信州の学海なり。凡そ経論に渉るの学者とうを担ひ、笈を負ひ、遠方より来って皆至る。師その席に趨り虚日なし」
 故半田孝海大僧正(常楽寺住職)の筆になるものである。

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