塩田平の文化と歴史

● 木曽義仲の旗上げ


 いまから約800年前平安末期のころ、当時全盛を誇っていた平家を倒すため、まず旗を上げたのが源頼朝と源義仲であった。義仲は木曽にかくれていたので木曽義仲といわれるが、従兄弟の頼朝とほとんど同時に挙兵した。その挙兵した場所が依田城(今の丸子町)であると伝えられている。(『源平盛衰記』)義仲はここを據点として、東信濃や西上州の武士たちに呼びかけ、木曽や諏訪から連れて来た家来たちも加えて軍団を編成した。
 義仲がとくに東信濃や西上州の武士たちを中核としたのは、この地方一帯が、かねてから源氏の勢力範囲であったことと、また優秀な軍馬を産出し、騎射に卓越した武士の多いことによっている。
 彼はそれらの武士をまず白鳥河原(今の東部町)に集めた。いわゆる”白鳥河原の勢ぞろえ”である。このとき集合した武士たちは約千騎と記されているが(『平家物語』)、まず千曲川筋を下り、横田河原(今の長野市篠の井横田)で平家の大軍と対決した。約六万騎といわれる(『平家物語』)平家軍を、大激戦の末、撃破した余勢をかって、越後に攻め入り、さらに怒涛のような勢いで京都に進撃する。その有様は旭日昇天のようであったので、彼は”旭将軍”といわれた。
 このとき義仲に従って進んだ武士たちの中に塩田八郎高光の名がみえ、さらに主将格のものとして、佐久の根々井氏・小諸氏・小県の海野氏・称津氏などがあることに注目しなければならない。
 義仲は入京してから平家討伐の功を誇っていたが、次第に頼朝などの軍勢に圧倒され、つい寿永3年(1184)粟津ケ原で戦死、木曽軍は全滅した。しかし、義仲に従軍したこの地方の武士たちは、その武勇が鎌倉幕府の認めるところとなり、次第に頼朝に重用されていくのである。写真は義仲挙兵の地「依田城址」。

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