塩田平の文化と歴史

● 独鈷山


 信越線上田駅をすぎるころ、左(南方)を眺めると、塩田平の南端にきわ高くそそり立って、あたかもこの地方の”主”かのような感じを与えている山が目に入るであろう。
 これが名峰独鈷山である。
 高さ1663m、安山岩が、深い侵蝕をうけて、ちょうど妙義山をみるような独特な山容をしているので、”小妙義”などと呼ばれている。
 独鈷山という名は、もともとこの山の支峯である弘法山(前山寺の奥の院がある)の別名だったが、いつかこの主峯の名となってしまった。峨峨突兀という漢語があるが、それがそのまま当てはまるような山なので、この名が用いられるようになったのだろう。
 昔、弘法大師が自ら永住する寺を建てようとして日本国中を巡ったとき、まずこの独鈷山に目をつけ、峰峰谷谷を踏査したところ、谷が99あった。さらに紀州(和歌山県)の高野山に至って同じように調ベたら、谷が100あった。そこで高野山に寺を建てることにした−という言い伝えは、この山の宗教的性格を物語っている。
 そういえば、この山の山頂には、広場があり、土地の人は寺屋敷とよんでいる。この山頂近くにあった寺に、夜な夜な通ってきた美女が、実はこの山麓を流れる産川に住む大蛇であった−というところからはじまる松谷みよ子氏の「竜の子太郎伝説」はすでに全国によく知られ、世界的にも紹介されている有名な物語りだ。
 また鎌倉初期この寺を根拠として活躍した安然坊なる僧が、鎌倉時代の有名な「泉親衡の乱」発覚の導火線となっていることからいっても、日本歴史の上でも重要な山といわねばならない。
 この山麓に、中禅寺・塩野神社・竜光院・塩田城跡・前山寺など由緒深い社寺城跡が山を囲むように点在している。塩田平をうるほす水は、この山からわき、何千年にわたって地域の人人を養ってきた。独鈷山は、塩田平にとっては、正に”母なる山”である。

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